二條陣屋の歴史

 当屋敷の創建は江戸時代寛文年間(1661〜1673年)といわれ、今から約350年前になります。
 古文書の残すところによれば、寛政3年(1791年)以後、商人「萬屋平右衛門(よろずやへいもん)」の屋敷であって、当地において米・両替商を営むとあります。
 萬屋平右衛門の萬屋は屋号であって、商人が苗字を名乗ることは特別の場合を除き、許されていません。
 米・両替商とは、武士の俸禄(ほうろく、給料のこと)である現物の米を貨幣に交換したり、旅人のために金、銀貨を銅銭に交換したりする店を言います。米・両替商は、それらの交換レートを支配することにより、手数料収入を得ることができたのです。
 米・両替商は、一定の財産があって初めてできる商売です。萬屋平右衛門は当初、公事師としてその財を蓄えたと伝わります。公事とは、今日でいう民事裁判を意味し、公事師とは今の弁護士か司法書士にあたります。
 屋敷は二条城の南側、川西(かわにし、堀川の西側)にあって、京都所司代屋敷、東西の京都町奉行、六角獄舎など幕府の司法関係の建物が集まる地区にありました。京都所司代や京都町奉行は、一定様式の訴状を要求します。公事師はそれを代書したり、罪人への面会を手続きしたりすることで、手数料収入を得ることができました。
 また、上洛してすぐに裁判が始まるとは限らず、判決が出るまでにも時間がかかります。裁判待ちの大名は公事師の屋敷に逗留するようになり、公事宿と呼ばれるようになりました。
 萬屋平右衛門の公事宿は、その地の利をさらに活かし、藩邸を持たない地方の大名に対し、上洛宿としても屋敷を提供するようになり、後には商人でありながら小川姓を名乗ることを許され、西国大名の御用達(ごようたし、おかかえの商人)となります。
 現存する屋敷は、過去の火災、改築等により、創建当時の店構えは見ることができませんが、各室の趣向を凝らした意匠と客の安全を図るための巧妙な防衛建築は、創建当時の造作を引き継ぐものと思われます。
 屋敷は小川家所有の住宅で現在も家人が居住しています。隣接する国民学校拡張のため、屋敷取り壊しの話があった昭和19年(1944年)、先人達の努力の末、現住民家では日本で2番目に国宝に指定されました。
 その後、昭和25年(1950年)の法改正(文化財保護法)により重要文化財となり、今日まで保存されています。
 なお、二條陣屋の名称は一般公開にあたり、当家が命名しました。

米・両替商の標章

庭から眺める屋敷

小川家の系譜

 当家の先祖は、近隣に現存する菩提寺である「浄土宗西山禅林寺派 来迎寺(らいこうじ)」の墓に彫られた墓誌(略歴)により、伊予国今治(愛媛県) の領主「小川祐忠(おがわすけただ)」と言われます。門前の駒札、屋敷のパンフレットでは、このように紹介しておりますが、これを証明する確たる古文書は現存せず、言い伝えにすぎません。
 小川祐忠は豊臣秀吉の家臣で、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは、当初西軍に味方していたものの小早川秀秋に呼応し、東軍に寝返ります。東軍に寝返ったことで、合戦直後はその所領を保持しますが、徳川家康は祐忠の裏切りを黙認せず、結局、小川家の所領を没収します。祐忠は合戦の数年後に没していますが、その子千橘(せんきつ)が改名し、当地において商人「萬屋平右衛門」として身を立て直したというものです。
 この言い伝えは墓誌を根拠にしていますが、小川祐忠は歴史上良く知られている武将であり、千橘が本当に祐忠の子であったのか信憑性に欠けます。
 別に、当家の先祖は大和国吉野郡小川郷(奈良県吉野郡東吉野村)の豪族小川氏で、千橘はその末裔との言い伝えがあります。
 当家には「春日の間」という奈良の故郷を偲んで作られた部屋があり、「木薬屋(きぐすりや)平右衛門」と名乗った時の金看板が現存します。吉野郡は薬草の産地として有名で、当地の出身であるからこそ、薬種商も営むことができたと考えられます。
 また、小川郷は、鎌倉、室町時代に奈良の興福寺に属した寺領荘園(国の租税免除のために寺院に寄進した荘園)であり、小川氏は荘園の荘官(荘園の管理者)であったと推定されます。千橘は、荘官に必要な公事訴訟の知識を持ち合わせており、京都に出た後も公事師として立身できたと考えられます。
 小川家の系譜は定かではありませんが、後者の言い伝えは信憑性が高いと言えます。

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