屋敷は小川家所有の住宅で、現在も家人が居住しています。
当家の先祖は、大和国吉野郡小川郷(奈良県吉野郡東吉野村)の領主小川氏です。小川氏は平安時代に領地を奈良の興福寺荘園に寄進し、自らはその荘官に収まります。寺院に寄進した荘園は国の租税が免除され、荘官として実権は維持できるからです。
江戸時代寛文8年(1668年)、京都に町奉行ができると聞きつけた小川氏末裔の千橘(せんきつ)は、上洛を決意します。千橘は荘官に必要な訴訟の知識と訴え状を作成できる実務能力を持ち合わせており、この才覚を活かすべく当地で公事宿「萬屋」を始めたのです。
八代目照好(てるよし)は屋号を「木薬屋」に改め、薬種商も営みます。
吉野郡は薬草の産地として有名で、当地の出身であるからこそ、薬種商もできたと考えられます。
その後照好は、蓄えた財産を元手に天保年間(1830~1844年)、米・両替商に転身します。

明治維新(1868年)後は、屋敷を部分的に改築し「小川旅館」の名で営業を続けていましたが、戦時中、隣接する国民学校拡張のため屋敷取り壊しが計画されます。
しかし、昭和19年(1944年)、先人方の努力の末、現住民家では日本で2番目に国宝(旧国宝保存法)に指定され、屋敷取り壊しをまぬがれます。
その後、昭和25年(1950年)の法改正(文化財保護法)により重要文化財となり、今日まで保存されています。
なお、「二條陣屋」の名称は一般公開にあたり、当家が命名しました。

薬種商の金看板

※近隣に現存する菩提寺「紫雲山来迎寺(しうんざんらいこうじ)」の照好墓誌に、「八世祖小川土州(土佐国)。豊臣氏麾下諸侯(将軍直属の旗本)」とあり、当家の先祖は伊予国今治(愛媛県)の領主「小川土佐守祐忠(おがわとさのかみすけただ)」であると、門前の由緒書き駒札、屋敷のパンフレットで家伝として紹介しておりますが、小川祐忠は歴史上良く知られている武将であり、史実と矛盾する点が多く信憑性に欠けます。