当屋敷の創建は江戸時代寛文年間(1661~1673年)といわれ、今から約350年前になります。
古文書の残すところによれば、天保11年(1840年)以後、米・両替商「萬屋平右衛門(よろずやへいもん)」の屋敷です。
萬屋平右衛門の萬屋は屋号であって、商人が苗字を名乗ることは特別の場合を除き、許されていません。
米・両替商とは、武士の俸禄である現物の米を貨幣に交換したり、関東で流通した金(小判)と関西で流通した銀(丁銀)を交換したりする店を言います。米・両替商は、一定の財産があって初めてできる商売です。
萬屋平右衛門は当初、公事師としてその財を蓄えたと伝わります。公事とは訴訟のことで、公事師とはおおむね今の弁護士にあたります。

屋敷は二条城の南側にあって、京都所司代屋敷、京都町奉行、六角獄舎など幕府の行政・司法関係の建物が集まる地区にありました。
裁判を起こすとき、奉行所は一定様式の目安(訴状)を要求します。
公事師はそれを代書し、奉行所からの呼び出し状を訴訟人に届けたり、未決囚を預かったりしました。
裁判はすぐに始まるとは限らず、判決が出るまでにも時間がかかります。裁判待ちの訴訟人は公事師の屋敷に逗留するようになり、公事宿と呼ばれるようになりました。
屋敷の面する通りは、かつては京都の公事宿街でした。

萬屋平右衛門の公事宿はその地の利をさらに活かし、京都所司代を訪れる大名に対し屋敷を提供するようになり、後には商人でありながら小川姓を名乗ることを許され、西国大名の御用達(ごようたし)となります。
現存する屋敷は、天明8年(1788年)の大火で全焼し、嘉永年間(1848~1854年)の再建です。また、明治維新後戦前まで、一般の旅館として営業するため、部分的に改築しています。

古地図で見る屋敷附近の様子

袖垣に掛かる米・両替商の標章