伝統的な造形に満足することなく、独特の趣向を凝らした意匠には驚かされます。平成の解体修理で、手直しを繰り返した痕跡が発見され、当家主人は建築中の屋敷に度々訪れ、造作の変更を指示したものと推定されます。

大広間

逗留中の大名の部屋です。また、客人との謁見の間でもあります。
格式ばった書院造ですが、京焼の釘隠し、捻梅(ねじうめ)透かし彫りの欄間、せせらぎに咲く葵の花をイメージした障子など、随所に数奇屋造の柔らかな意匠を取り入れ、泊まる者の眼を癒します。

天井は、柾目の向きを縦横にして市松模様を表した格天井(ごうてんじょう)です。天井の照明は、大正4年(1915年)に京都御所で執り行われた大正天皇御大典で、国の貴賓が宿泊した際に取り付けられたものです。
付書院の明り障子から差し込む光は、床の間の掛け軸を照らし、床脇の狆(チン)くぐり(チンは犬種名でチンがくぐれる程度の高さの開口部)を通って、楓の地板を程よく照らします。続く襖絵には狆が描かれ、言葉遊びした絵と思われます。
天袋には、狩野安信(かのうやすのぶ)の墨絵が描かれ、引手の丸に一文字を添え当家の略紋を象っています。
地袋には、松尾芭蕉の門人で、後、漆芸師に転身した小川破笠(おがわはりつ)の陶器片、貝殻を薄く削った螺鈿(らでん)、象牙、ギヤマン(当時輸入されたガラス)をはめ込んだ風変わりな蒔絵が見られます。(原画は京都国立博物館に寄託)
欄間の透かし彫りは、天井照明がなかった時代の装飾で、下方からの明りが格天井に花模様をゆらゆらと映し出し、泊まる者の眼を癒します。

大広間

狆の襖絵

蒔絵(蘭亭鵞池の王羲之)

捻梅透かしの欄間

お能の間

大広間に隣接する部屋は、畳を上げると敷き舞台(家屋の中に設けられた能舞台)になります。
大名の逗留中は能・狂言師を招き、演目を披露したのです。
二間四方(8畳の広さ)ですが、檜の床板を張り、床下は中央を深く掘り下げて漆喰で塗り固め、そこへ向けて四つの甕(かめ)を設置しており、音響的には能舞台同様の造りです。
通常は家臣の控の間で、正面の鏡板は障子と板戸が半々の段襖(だんぶすま)にして光を採り入れ、能舞台として使用するとき、板戸を落として障子を塞ぎ、囃子方(はやしかた)の奏でる音が反響するよう工夫されています。
さらに、釣り床の床柱の内部をくり抜いて、ここでも音が響くよう工夫されています。
舞台に続く廊下には、その腰絵に三本の若松を描いて、橋掛り(能の演者が現れる通路)に見立てています。

お能の間Photo by Tetsuro Goto (ISOLA Inc.)

演奏時の段襖

湯屋

湯屋は、大名湯殿(ゆどの)とも呼ばれます。
浴槽は木製ではなく、三和土(たたき)の枠組みに陶板で化粧を施した非常に珍しい浴槽です。
解体修理中、嘉永年代の陶板と判明し、国内最古の陶板浴槽です。
湯屋は給湯式で、外で焚いた湯を壁に開いた穴から箱樋で流し込みます。浴槽に接して炭釜を入れる保温槽があり、間の陶板には多数の孔が開けられています。
この孔を通して湯が浴槽と保温槽との間を循環し、冷めないのです。
上下に稼働する仕切り板も設けられており、保温槽に回る湯量を変えることにより、温度調節する仕組みになっています。
腰壁は朱色の油ごねで海鼠(なまこ)壁風(目地に漆喰を盛り上げた形の壁、その形が海鼠に似るところから)に仕上げています。
格子の中に勝ち虫といわれる「とんぼ」が一匹彫刻されており、訴訟のため逗留する者の勝訴を祈願した意匠と考えられます。
湯屋は、三方に入口が設けられています。雪隠(せっちん、トイレのこと)や「皆如庵」水屋からも井戸を使いやすくするためですが、入浴中でも万が一の奇襲に備え二方向避難を確保していると考えられます。
二方向避難を確保する作りは、他室においても散見されます。

湯屋

京都新聞(2011/9/13)

赤壁の間

屋敷二階にあり、大名一行の逗留中、家臣の控の間として使われました。
紅殻を含む壁土で一面赤に塗られており、部屋の名となっています。
床の間は、座敷畳が敷き通しの釣り床で、床柱はアカマツの無垢面皮柱、珍しい三角形の天袋が見られます。
隣室との間の襖絵には、江戸から長崎までの宿場町が上空から見渡すように描かれています。
現在の赤壁は嘉永年代の色を復元したもので、解体修理中、時代変遷に伴い塗り重ねられた壁土が発見され、その一部を公開用に残しています。

赤壁の間

京都新聞(2011/9/27夕刊)